御所八幡宮社のあけぼの

なぜ御所がつくのでしょうか?

平安時代からの歴史を紐解いてみましょう。

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御所八幡宮社について
御祭神:應(おう)神(じん)天皇、神(じん)功(ぐう)皇后、比賣(ひめ)神(この場合、応神天皇の后(きさき))
【御所八幡宮社の曙(あけぼの)               文中の★印の二重下線には、註釈あり。
鎌倉時代の弘安(こうあん)元年(1278)10月13日、★二條内(だい)裏(り)の焼失により★後(ご)宇多(うだ)天皇(この時11歳)は、萬里(までの)小(こう)路(じ)冷泉(れいぜい)殿(どの)(父君の亀山上皇の内裏)へ一時避難の上、翌11月8日の夕刻、前(ぜん)内(ない)大臣(だいじん)★中院(なかのいん)通(みち)成(なり)の★三條坊門(ぼうもん)萬里(までの)小路(こうじ)邸(てい)に行幸されて暫(しばら)くの間、内裏(だいり)(天皇の住居)となる。
〔弘安6年(1283)1月7日に四足門を建立の上、行幸し内裏となるの記録あり「増(ます)鏡(かがみ)」。〕
二條内(だい)裏(り)〔二條高倉殿(どの)〕:元二條殿(どの)(二條関白の伝領)。二條関白(かんぱく)とは、摂政(せっしょう)や関白に任ぜられる摂関(せっかん)家(け)(藤原家)で五(ご)摂家(せっけ)(近衛(このえ)、九條、一條、二條、鷹(たか)司(つかさ))の一つ。平安時代後期から鎌倉時代前半期の歴代天皇の里(さと)内(だい)裏(り)(天皇の仮住居)となり、後(ご)宇多(うだ)天皇はここで即位している。弘(こう)長(ちょう)2年(1262)に亀山天皇が遷幸(せんこう)(天皇が他の居所に移る事)されてから「二條高倉殿(どの)」と呼ばれる。場所は、現在の鍵(かぎ)屋(や)町(ちょう)全域で二條通、押小路通、東洞院通、高倉通を囲む地域。
後(ご)宇多(うだ)天皇:第91代。亀山天皇第2皇(おう)子(じ)。文永(ぶんえい)4年(1267)~正中(しょうちゅう)元年(1324)。
8歳で即位。在位は文永11年(1274)~弘安10年(1287)の13年間。
在位中に2度の蒙(もう)古(こ)襲来〔文永の役(元寇(げんこう)3万=900艘(そう))・弘安の役(元(げん)と高麗(こうらい)14万=4,400艘)〕。【天皇異国降伏を祈願。敵上陸後も我が守備軍は奮戦防御。2度とも暴風雨で悉(ことごと)く敵船沈没。神風(かみかぜ)伝説を生む。】
中院(なかのいん)通(みち)成(なり):藤原家(藤原通成とも)。貞応(じょうおう)元年(1222)~弘安9年(1286)。村上源氏。久(こ)我(が)家分流。右大臣源(みなもとの)師房(もろふさ)の六世土御門(つちみかど)通(みち)親(ちか)の五男通方(みちかた)を祖とする。
三條坊門萬里(までの)小(こう)路(じ)邸(てい):現在の丸木材木町(下堺町北)全域で高倉通、柳馬場通、御池通、★姉小路通?(三條通=この場合は大阪材木町(下堺町南)全域と木之下町の東側)を囲む地域。
姉小路(通):読みは“あねやこうじ”古くは、又は正しくは“あねがこうじ”。平安京遷都の延暦(えんりゃく)年間に始(はじま)るが、姉小路の資料がこの時代に殆(ほとん)ど出て来ない。私見だが、既に途切れたり無かったりしていたのではないかと感じられる。三條坊門萬里小路邸の敷地を示す表記に「三條高倉」とある事や、その後の歴史的見地からして御池通から三條通迄の地域ではないかと考えられる。応仁の乱で荒廃した事は記録にもあり、姉小路通としての開通は天正年間である。
三條坊門萬里(までの)小(こう)路(じ)邸の辺りは仁(にん)治(じ)3年(1242)に石(いわ)清水(しみず)八幡宮寺★別当(べっとう)宝清から権(ごんの)別(べっ)当(とう)宮清に譲られたと云う「三條高倉敷地」に当たると思われる。従って代々石清水八幡宮の関係者が伝領(でんりょう)していた土地である。中院(なかのいん)通(みち)成(なり)の邸内に八幡宮の祠(ほこら)があっても不思議ではない。村上源氏の一門である中院氏が、源氏の氏神である石清水の若宮(わかみや)を邸内にいつ頃、勧請(かんじょう)奉斎(ほうさい)(神を迎えて祀(まつ)る)したかは不明であるが、後(ご)宇多(うだ)天皇の行幸により帝(みかど)が親しくお参りされたので以後『御所(ごしょ)八幡宮(はちまんぐう)』として子々(しし)孫々(そんそん)奉斎(ほうさい)していたと云う。
〔★三條内裏に勧請した故『御所八幡』と号す〔延宝(えんぽう)5年(1677)「出来斎京土産」〕の資料もあり。〕
別当(べっとう)+(寺(じ)):「別当」とは「別に本職にある者が他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務(じむ)を司る官職」。別当寺は、神宮寺(じんぐうじ)、宮寺(みやでら)と同意語。本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく)説(せつ)により、神社の祭神が仏の権(ごん)現(げん)(化身して現れる)であるとされた神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)の時代に「神社は即(すなわ)ち寺である」とされ、神社の境内に僧坊(そうぼう)(僧の住居)が置かれて渾然(こんぜん)一体(いったい)となっていた。神仏習合の時代には、神社で最も権力があったのは別当である。慶応4年(1868)3月17日〔明治改元は9月8日〕に太(だ)政(じょう)官(かん)布告(ふこく)により神仏分離令を発布。以後、現在に及ぶ。
【参考に垂迹(すいじゃく)神(しん)と本地仏(ほんじぶつ)の一例を次に示す。】
   
三條内裏:後宇多天皇の内裏となった三條坊門萬里小路邸の事と推定。
注平安時代中期の太(たい)皇太后宮(こうたいごうのみや)三條(さんじょう)御所(ごしょ)(日本記略)=昌子(まさこ)内親王(ないしんのう)(冷泉(れいぜい)天皇の皇后⇒太皇太后)が住まいした「三條御所」ではない。三條御所は、現在の御所八幡町から南で御池通の路上になるものの位置は「三條内裏」とほぼ同じである。しかし、時代を300年近く遡(さかのぼ)った永祚(えいそ)・正暦(しょうりゃく)年間(990年前後)の事である。又、後(ご)宇多(うだ)天皇の頃には既に焼亡(承久(じょうきゅう)3年1221)していた「東三條内裏=三條東殿」でもない。
しかし、三條坊門萬里(までの)小(こう)路(じ)邸の地は、その後に足利(あしかが)直(ただ)義(よし)(足利尊氏の弟)の邸(やしき)となり、更にその後は室町幕府第2代将軍足利義(よし)詮(あきら)(足利尊氏の嫡男(ちゃくなん))の邸となる。