源平合戦~足利尊氏

武士の世の中の神社

武士の世の中になったこの時代、神社はどんな歴史を見守ったのでしょうか?

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【以仁王と高倉宮御所跡】
この三條坊門萬里(までの)小(こう)路(じ)邸の場所は、★後(ご)白河(しらかわ)天皇の皇(おう)子(じ)で、治(じ)承(しょう)4年(1180)に
源(みなもとの)頼政(よりまさ)の勧めにより平家討伐(とうばつ)の令(りょう)旨(じ)を発した★高倉宮(たかくらのみや)以仁王(もちひとおう)の御所の東隣りに当たる。以仁王の計画は直(す)ぐに発覚し、園城寺(おんじょうじ)(三井寺)へ逃れ、更に奈良興福寺(こうふくじ)に向かう途中、平家の追手に追い着かれ、宇治平等院で源頼政と共に敗(やぶ)れて死する事となる。しかし、令旨は全国の源(げん)氏(じ)に伝えられ源平(げんぺい)合戦(かっせん)の口(くち)火(び)となり、平家は滅ぶ。
後白河天皇:第77代。鳥羽天皇第4皇子。大治(だいじ)2年(1127)~建(けん)久(きゅう)3年(1192)。兄の崇(す)徳(とく)天皇と対立し、保元(ほうげん)の乱の一因となる。譲位後、二條、六條、高倉、安徳、後鳥羽の5代34年間に亘(わた)り院政(いんせい)(上皇、法皇が行う政治)を行った。源平(げんぺい)争乱、鎌倉幕府の成立等々の激動期にあって貴族勢力維持の為、武家勢力と対抗。嘉(か)応(おう)元年(1169)法皇(ほうおう)となり多くの寺仏を造る。『梁(りょう)塵(じん)秘(ひ)抄(しょう)』〔今様(いまよう)歌(か)謡(よう)の集大成。治(じ)承(しょう)年間(1180前後)の作品〕の撰者(せんじゃ)としても有名。在位は、久(きゅう)寿(じゅ)2年(1155)~保元(ほうげん)3年(1158)の3年間。
源(みなもとの)頼政(よりまさ):それまで正(しょう)四位下(しいげ)を極(ごく)位(い)(最高の位)としていた清和(せいわ)源(げん)氏(じ)としては突出(とっしゅつ)した従(じゅ)三位(さんみ)に叙(じょ)せられた事から源(げん)三位(さんみ)と称された。保元(ほうげん)平治(へいじ)の乱の勝者側だった事もあり、源氏でありながら平(たいらの)清(きよ)盛(もり)に信頼される。しかし、平家が横暴を極める中、晩年は以仁王と結んで平家討伐(とうばつ)を計画するも失敗し、平氏の追討(ついとう)を受け宇治平等院で敗れ自害する。能『頼政(よりまさ)』でも謡(うた)われる。
高倉宮(たかくらのみや)以仁王(もちひとおう):仁平(にんぴょう)元年(1151)~治(じ)承(しょう)4年(1180) 29歳。後白河天皇の第3皇子。『平家物語』では兄の守(しゅ)覚法(かくほっ)親王(しんのう)が仏門に入った為、第2皇子とされている。“平家で無ければ人でない”と言われた時代に平家討伐の令旨を発する。皇族子女に与えられる親王(しんのう)宣下(せんげ)を受けていないので王と称す。現在の親王は皇室(こうしつ)典範(てんぱん)により天皇の嫡出(ちゃくしゅつ)系皇孫男子の称号(女子は内親王)となり、三世以下(曾(ひ)孫(まご)以下)を王(女王)と称する。
以仁王亡(な)き後(あと)、★高倉宮(たかくらのみや)の御所は、直ちに破却された。その後は平安後期の公家(くげ)で右(う)近衛(こんえの)中将(ちゅうじょう)正(しょう)四位(しい)下(げ)藤原(ふじわらの)成定(なりさだ)・正四位下大膳(だいぜん)職(しき)の大夫(だいぶ)(元院(いんの)近臣(きんしん)=院政の側近)平(たいらの)業(なり)忠(ただ)の遺邸・従(じゅ)三位(さんみ)源(みなもとの)顕兼(あきかね)〔鎌倉前期の説話編者。藤原(ふじわらの)定家(さだいえ)(「ていか」とも)と親交。注母は石清水八幡宮別当光(みつ)清(きよ)の娘〕の邸(やしき)があった様である。その後年には、東隣り(元の三條坊門萬里小路邸)と合わして足利直(ただ)義(よし)の邸となり、続いて足利義(よし)詮(あきら)の邸となるが、京都を含め各地で戦乱が続く時代でもあり、この辺りは何度も火災に合うので、場所をはっきりと掌握出来ない。観応(かんおう)2年(1351)の火災後は、貞(じょう)治(じ)3年(1364)に東側に新邸を造設し、翌年に義詮が移っている。
高倉宮(たかくらのみや)の御所:平安京では、左京三條四(し)坊(ぼう)二(に)保(ほ)四(し)町(ちょう)に当たる。現在の姉小路通、
三條通、東洞院通、高倉通を囲む地域で、元初音校(現:京都市教育相談総合センター・パトナ)・京都文化博物館・中京郵便局等に当たる。
〔東洞院通姉小路下るパトナ前に石碑あり〕
【瑞雲山通玄寺/曇華院(智泉聖通尼)
そして、高倉宮の御所跡は足利義詮夫人の母に当たる★智(ち)泉(せん)聖通(しょうつう)尼(に)公により臨済宗(りんざいしゅう)★瑞(ずい)雲(うん)山(さん)通(つう)玄寺(げんじ)を創建する。しかし、応仁(おうにん)の乱で全てが焼(しょう)亡(もう)し、通玄寺は庵(いおり)であった★曇(どん)華(げ)院(いん)に寺名を統一して再興する。
智(ち)泉(せん)聖(しょう)通(つう)尼(に):延(えん)慶(きょう)2年(1309)生~(北朝)嘉(か)慶(きょう)2年/(南朝)元中(げんちゅう)5年(1388)歿(ぼつ)。79歳。
順徳天皇の曾(ひ)孫(まご)に当たる。出家前には石清水八幡宮別当(善法寺(ぜんぽうじ))通(みち)清(きよ)に嫁(とつ)ぎ、石清水八幡宮別当昇(しょう)清(せい)及び女子三人を生(な)している。その一人、紀(きの)良子(よしこ)は、足利義詮の側室で第3代将軍足利義(よし)満(みつ)の母である。正室の渋川(しぶかわ)幸子(こうし)は子を生(な)したが夭折(ようせつ)(若くて死亡)し、以後無かった。もう一人の紀(きの)仲(ちゅう)子(し)(後、藤原兼(ふじわらのかね)綱(つな)養女) = 崇(すう)賢門院(けんもんいん)は、後(ご)光(こう)厳(ごん)天皇(北朝)に寵愛(ちょうあい)され、後(ご)円(えん)融(ゆう)天皇(北朝)の母となる。もう一人の女子(蘭庭(らんてい)明(みょう)玉(ぎょく)禅(ぜん)尼(に))は、奥州(おうしゅう)の伊達家へ嫁いでいる。兄弟では兄二人が居り、一人は左大臣四辻(よつつじ)善(よし)成(なり)〔四(よつ)辻(つじの)宮(みや)家(け)=智泉尼の実家、二(に)條(じょう)良(よし)基(もと)の猶(ゆう)子(し)(養子)となる〕であり、もう一人の長兄の無(む)極(きょく)志(し)玄(げん)は、★天龍寺を開いた★夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき)の弟子である。智(ち)泉(せん)尼(に)も夢窓疎石に師事(しじ)(師と仕え教えを受ける)したと伝えられている。
瑞(ずい)雲(うん)山(さん)通(つう)玄寺(げんじ):尼寺(あまでら)五(ご)山(さん)の一つ。尼(あま)門跡(もんぜき)(女子の皇族や公家が法統を継ぐ)寺院。(北朝)康暦(こうりゃく)2年(1380)に仏殿の起工式を挙行。応仁の乱後は曇華院となる。
曇(どん)華院(げいん):山号は瑞雲山。通玄寺の東の庵(いおり)として創建。応仁の乱で通玄寺と共に焼亡。再建後は、寺名を通玄寺から曇華院に統一して再興を図る。長享(ちょうきょう)元年(1487)に智泉尼の百周忌の法要を行う。その後も火災で類焼するも再興。天文(てんぶん)21年(1552)には後(ご)奈良(なら)天皇(第105代)の皇女(こうじょ)秀(しゅう)聖(しょう)尼(に)が入山(出家)して再興。慶長(けいちょう)8年(1603)に三度(みたび)焼亡。寛(かん)文(ぶん)年間(1661~1673)に後(ご)西(さい)天皇(第111代)の皇女大成(たいせい)尼(に)が入山し、延宝(えんぽう)5年(1677)に中興(荒廃から再び盛り返す)。江戸期の大火にも焼亡再建、栄枯盛衰を繰り返すも元(げん)治(じ)元年(1864)の「蛤(はまぐり)御(ご)門(もん)の変(へん)」で完全焼失。明治4年(1871)に嵯峨の天龍寺近くに移転〔右京区嵯峨北堀町〕。曇華院の境内には往古より東北の隅に“初音の杜(もり)(森)”があり、元初音校〔明治2年(1869)柊町に官費を受けずに第25番組小学校を創立。同8年(1875)に校名を附す。同26年(1887)に京都市教育相談総合センター・パトナの現在地に移転。昭和22年中学校〕や初音学区〔昭和4年(1929)の中京区増区の時から称する。〕の名称の由来となっている。
天龍寺:開基(かいき)(建造者)は足利尊氏で開山(かいざん)(創始者)が夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき)。曇華院を創建した智泉尼の兄の無(む)極(きょく)志(し)玄(げん)が天龍寺二世として後を継いでいる。明治になって曇華院が天龍寺近くに移ったのも、そんな歴史的経緯からではないかと推察される。

夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき):後(ご)醍醐(だいご)天皇の思(おぼ)し召(め)しにより南禅寺の住職となり、夢(む)窓(そう)国(こく)師(し)の号を受ける。後醍醐天皇が失脚した後(あと)は、その政敵となった足利尊氏の帰依(きえ)(神仏を信仰し従い頼る)を受ける。夢窓国師は天龍寺や西(さい)芳(ほう)寺(じ)(苔寺(こけでら))等の庭園を手懸け又、詩や書道にも優れていた。
順徳天皇:第84代。内裏は★閑院(かんいん)。里内裏は、三條坊門内裏と★東(ひがし)三條内裏
閑 院:西洞院通、油小路通、押小路通(御池通と云う資料もある)、二条通に囲まれた地域。
正(しょう)元(げん)元年(1259)5月焼失。又この地は豊臣秀吉が妙(みょう)顕寺(けんじ)城(じょう)を建て聚(じゅ)楽第(らくてい)(「だい」とも)が完成する迄(まで)政庁とした。〔押小路通小川西入る西福寺の前に立札あり〕
三條坊門内裏:現在の塗(ぬ)師(し)屋(や)町(ちょう)全域で御池通、押小路通、東洞院通、烏丸通を囲む地域。「押小路殿」とも云う。二條天皇、後深草天皇も使用。
東三條内裏:現在の三條通、姉小路通、東洞院通、烏丸通を囲む地域。
「三條烏丸御所」、「三條東洞院第(てい)(「だい」とも)」、「三條東(ひがし)殿(どの)(「とうでん」とも)」と云う。
白河天皇より順徳天皇迄(まで)。〔現在の新風館(姉小路通烏丸東)に立札と石碑あり。〕
注間違え易いが、東三條殿(御池通、二條通、新町通、西洞院通を囲む地域)ではない。
〔押小路通釜座西北角に立札と石碑あり。〕
【足利尊氏】
 建武(けんむ)2年(1335)、北條(ほうじょう)時(とき)行(ゆき)は鎌倉幕府復活の為、後醍醐天皇の建武政権に対して鎌倉を奪還(だっかん)すべく挙兵し、足利(あしかが)直(ただ)義(よし)の軍を敗(やぶ)った。中先代(なかせんだい)の乱と云う。これを契機に★足利尊(たか)氏(うじ)は、鎌倉へ制圧に向かう。足利直義は、建武政権側で征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)だった護良(もりよし)(「もりなが」とも)親王(後醍醐天皇の皇子)を北條時行が奉ずる事を警戒して殺害し、成(なり)良(よし)(「なりなが」とも)親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて西走する。足利尊氏は同年征夷大将軍となり、北條時行を敗り、鎌倉入り果たす。しかし、尊(たか)氏(うじ)は帰京しない為に逆に叛乱(はんらん)軍となってしまう。翌年には一旦京都に戻るものの逆賊(ぎゃくぞく)が故に掃蕩(そうとう)の憂(う)き目に合う。戦いは新田(にった)義(よし)貞(さだ)に敗れ、更に菊池(きくち)武(たけ)敏(とし)・阿蘇(あそ)惟(これ)直(なお)の軍にも敗れ、筑紫(つくし)(九州。筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)を指す)へ逃れた。しかし、軍勢を立て直し再び京都に向かう。途中で光(こう)厳(ごん)上皇より院宣(いんぜん)(上皇の命令書)を賜り西国の武士を獲得し、遂に楠木(くすのき)正成(まさしげ)を敗り(湊川(みなとがわ)の合戦、新田義貞は敗走)、京都に入った。後醍醐天皇は吉野に逃れ、建武(けんむ)の新政(しんせい)は崩(ほう)潰(かい)してしまうが、南朝を樹立。そして、南北朝時代に入る。足利尊氏は、(北朝)暦応(りゃくおう)元年(南朝)延元(えんげん)3年(1338)に室町幕府を開いて初代の将軍となる。しかし、幕政も荒波の舟の如く武家を捲(ま)き込(こ)み南北朝の諍(いさか)いに翻(ほん)弄(ろう)され、やがて謂(い)わば二元体制だった尊(たか)氏(うじ)と直(ただ)義(よし)は対立して行く。
『御所八幡宮』は、(北朝)康(こう)永(えい)3年(1344)に尊氏が、自身の★邸内に勧請(かんじょう)(神を迎える)し、新田(にった)義(よし)貞(さだ)を討つ時に勝利祈願したと云う。足利尊氏の弟で副将軍の職にあった直(ただ)義(よし)は、高(こうの)師直(もろなお)と対立し、更に尊氏とも不和となり、鎌倉に幽閉されていたが、(北朝)文和(ぶんな)元年(南朝)正平(しょうへい)7年(1352)結局毒殺される。直義の邸(やしき)は尊氏の嫡男(ちゃくなん)、足利義(よし)詮(あきら)の邸となる。
足利尊氏:嘉(か)元(げん)3年(1305)11月8日生~(北朝:崇(す)光(こう)天皇→後(ご)光(こう)厳(ごん)天皇)延文(えんぶん)3年(南朝:後(ご)村上(むらかみ)天皇)
正平(しょうへい)13年(1358)4月30日歿(ぼつ)。53歳。征夷大将軍となって室町幕府を開く。
足利尊氏の邸宅:現在の杉屋町、扇屋町、竹屋町全域と御所八幡町に当たる部分で
御池通、二條通、高倉通、柳馬場通を囲む地域。御所八幡宮が祀られ等持寺となる。因(ちな)みに柳馬場通押小路上るを「等持寺町」と云い、御池通柳馬場東入る(現:京都御池中学校の一部)を「東八幡町」と云い、その南を「柳八幡町」と云う。これ等(ら)の町名も尊氏邸が遺(のこ)したものと言える。
【等持寺と御所八幡宮社の精華】
足利尊氏が自分の邸内に『御所八幡宮』を何故(なぜ)勧請(かんじょう)(神を迎える)したかは定かでない。前々年、又勧請後であるが同年にも足利直(ただ)義(よし)の邸(やしき)が火災を起している。そんな不吉も動機になったのかも知れないが、足利直義の邸にせよ、後(のち)の足利義(よし)詮(あきら)の邸にせよ、この土地柄が中院(なかのいん)氏にして石(いわ)清水(しみず)八幡宮と深い関係にあり、嫡男(ちゃくなん)(義詮)の嫁、良子(よしこ)も石清水八幡宮の娘であり、嘗(かつ)ては後(ご)宇多(うだ)天皇の内裏ともなり、帝(みかど)が崇敬された『御所八幡宮』を尊氏自身が勧請しても何ら不思議でない。むしろ厚遇(こうぐう)(手厚い待遇)したであろう事は、推(お)して知るに難(かた)くない。良子は第3代将軍足利義(よし)満(みつ)の母となり、妹の仲(ちゅう)子(し)は、後円融天皇の母となる。その二人の女子の母が通玄寺(曇華院)の智(ち)泉(せん)尼(に)なのである。智泉尼(四(よつ)辻(つじの)宮(みや)家出身)の直(す)ぐ上の兄が二條関白(二(に)條(じょう)良(よし)基(もと))の猶(ゆう)子(し)(養子)となっている。勿論、その頃は出(しゅっ)家(け)前なので石清水八幡宮別当通(みち)清(きよ)の夫人である。長男は石清水八幡宮の別当昇(しょう)清(せい)となる。又、智泉尼の一番上の兄が天龍寺の二代目を継ぐ無(む)極(きょく)志(し)玄(げん)であるから、謂(い)わば朝廷(北朝)も、関白(二條殿)も、幕府(足利家)も、石清水八幡宮(別当紀(きの)氏(うじ))も、通玄寺(智泉尼)も、天龍寺(無極志玄)も皆、親戚関係となる。
『御所八幡宮』は、その様な環境の中で境内四(し)町(ちょう)四(し)方(ほう)、本殿八棟造りの善美(ぜんび)(美しい事)を尽くした殿舎(でんしゃ)を再興造営し、将軍家足(あし)利(かが)氏(し)の鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)として奉斎(ほうさい)(神を謹(つつし)んで祀(まつ)る)され、隆盛(りゅうせい)を極める事となる。
しかし、尊氏の死後、邸(やしき)は鳳凰山(ほうおうさん)★等(とう)持(じ)寺(じ)となる。等持寺には、天龍寺を開山した夢窓國師(夢窓疎石)も一時居住した事があると云う。『御所八幡宮』は、応(おう)永(えい)年間(1394~1428)には醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の満済(まんさい)〔「まんぜい」とも。尼僧。義満の猶(ゆう)子(し)、三宝院門跡では初めて准(じゅ)后(ごう)(皇后に準ずる位)の宣旨(せんじ)を受ける。〕を別当とし、等持寺の守り神となって栄耀(えいよう)(輝く様に栄える)を極める。しかし、応仁の乱では灰燼(かいじん)に帰す(原型を留めない程、焼けて落ちる)。そして、等持寺は別院である★等(とう)持(じ)院(いん)(北区)に統一され、今日に到る。
『御所八幡宮』はこの地に残って再建される。その様な事から等持寺八幡宮、高倉八幡宮、三條坊門八幡宮とも呼ばれたと云う。

注カタカナの振り仮名は検証不能
等持寺:山号(さんごう)(寺院の名に冠する称号)は、鳳凰山(ほうおうさん)。元は足利尊氏邸だが、「等持寺絵図」や「師(もろ)守(もり)記(き)」によると暦応(りゃくおう)2年(1339)11月26日の條(項)に“三條坊門第(てい)等持院”とあり、又「大(だい)外(げ)記(き)師(もろ)夏(なつ)記(き)」によると康(こう)永(えい)2年(1343)8月21日の條(項)に“三條坊門高倉等持院”とある事から将軍足利尊氏邸でありながら同時に等持寺であった様(よう)である。開山は古(こ)先(せん)印元(いんげん)。妥(ダ)帖(チョウ)庵(アン)、開山塔(かいざんとう)、清晏(せいあん)斎(さい)(方丈(ほうじょう))、故(コ)卿(ケイ)所(ショ)宝雲閣(ホウウンカク)(山門)、観音(かんのん)殿(でん)(閣)、香(こう)雪亭(せつてい)(書院)、聴(チョウ)雨(ウ)・聚(シュウ)星(セイ)(衆寮(しゅうりょう))、宗(シュウ)鏡(キョウ)堂(ドウ)、八(はっ)講(こう)堂(どう)、芙(ふ)蓉(よう)池(ち)、萬年松があったと云う。
永(えい)和(わ)3年(1377)には足利義満により★十刹(じっせつ)の筆頭となり、足利家歴代の供養や法華(ほっけ)八講(はっこう)が行われ、菩(ぼ)提(だい)寺(じ)として厚く保護された。しかし、足利義満が永(えい)徳(とく)2年(1382)に相(しょう)国(こく)寺(じ)を創建してからは、その役割を失って行った。
なお、元々の寺(てら)地(ち)は浄土宗浄(じょう)華(け)院(いん)(現:清(しょう)浄(じょう)華(け)院(いん)=上京区寺町通広小路上る)の境内であった。清浄華院は清和(せいわ)天皇の勅願(ちょくがん)により禁裏(きんり)道場(どうじょう)として天台宗慈(じ)覚(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)が開山した寺であるが、法(ほう)然(ねん)上人(しょうにん)が後白河法皇より清(しょう)浄(じょう)華(け)院(いん)を勅授(ちょくじゅ)されて以来、浄土宗の念仏道場となった。事実上の開山と謂(い)われる向(こう)阿(あ)(証賢)上人の頃は土(つち)御(み)門(かど)室町(現:上京区上長者町室町から新町辺り)にあった。
等持院:現在の北区等持院北町。山号(さんごう)は萬(まん)年山(ねんさん)。臨済宗天龍寺派。暦応(りゃくおう)4年(1341)に別院北等持寺を創建。開山は夢窓疎石。足利尊氏の死後、尊氏の墓(ぼ)所(しょ)となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で本(ほん)寺(じ)(本山)が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺となった。
十刹(じっせつ):臨済宗で五山に次ぐ寺格(じかく)(寺の格式)の10の大(だい)寺(じ)。中国に始まり、日本では暦応(りゃくおう)4年(1341)に制定されたが、後に改めて京都、鎌倉各別に制定された。
等(とう)持(じ)寺(じ)、臨川(りんせん)寺(じ)、眞(しん)如(にょ)寺(じ)、安國(あんこく)寺(じ)、寶(ほう)幢(どう)寺(じ)、普(ふ)門(もん)寺(じ)、廣(こう)覚(かく)寺(じ)、妙光(みょうこう)寺(じ)、大(だい)德(とく)寺(じ)、龍(りゅう)翔(しょう)寺(じ)。 関東(鎌倉)にも10寺あり。
法華八講(ほっけはっこう):天台宗の開祖である最澄(さいちょう)が平安時代初期、唐に渡る航海の安全を祈って宇佐(うさ)神宮(じんぐう)に参拝。無事帰国した後に感謝の意を表す為に再び訪れて八幡(はちまん)大神(おおかみ)に法(ほ)華(け)経(きょう)を講じたのが始まりと云う。これは、神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)の名残(なごり)で、今となっては珍しい儀式である。神官と僧侶が同席して執(と)り行(おこな)う。
嘗(かつ)ては各神社、各寺院、宮中(きゅうちゅう)でも執り行われていた。明治維新後の神仏(しんぶつ)分離令(ぶんりれい)発布以降は殆ど無くなったが、昨今は復活の兆(きざ)しがあり、所々で観られる。
宇佐(うさ)神宮では、本殿(国宝)にて同神宮の神職が祝詞(のりと)を奏(ほう)上(じょう)し、天台(てんだい)座主(ざす)が祭文(さいもん)を奉じた後、「三問一答」の問答(もんどう)を行う。問者(もんじゃ)となった3人の僧侶が、教義の中から文言(もんごん)を取り出して問い、講(こう)師(じ)の僧侶が講釈を加えて解答すると云う形である。追善(ついぜん)(死者の冥福を祈る)、奨学(学問を勧める)、祈願、神仏への法楽(ほうらく)(善行し徳を積んで楽しむ)の為に催された。