応仁の乱から江戸時代

江戸時代のガイドブックに載っている神社

都名所図会にも紹介されています。

miyakomeisyo.jpg【応仁の乱と以後の中興から現代】

応仁(おうにん)の乱は、京都の市街地の殆(ほとん)どを焼け野原と化してしまった。大乱後の京都市(し)中(ちゅう)は生き地獄の酸鼻(さんび)(惨(むご)たらしく痛ましい様子)であった。京都の人々が現在でも“先(さき)の大戦”と言えば、応仁の乱を指(さ)す所以(ゆえん)である。長引く荒廃の中、通玄寺は曇華院に寺名を統一して同じ場所で再興され、『御所八幡宮』は、この地に天台宗吉祥院〔眞如堂(眞(しん)正(しょう)極楽寺)の塔頭(たっちゅう)。(眞如堂は応仁の乱後、市中を転々する。車屋町通二條上るの「眞如堂町」も、その一つの名残)〕の別当寺として鎮座が守られる事となり、天(てん)正(しょう)年間には豊臣(とよとみ)秀(ひで)吉(よし)により社殿を造営され、江戸時代の大火〔宝(ほう)永(えい)5年(1708)=禁裏一円も焼失した為、混在していた民家を東(主に鴨川の東)に移し、禁裏を大整備した。東に移った人々は元の道路名に“新”を付け、以って市街地を造成、天明(てんめい)8年(1788)=京都の歴史上最大規模の大火(応仁の乱以上とも)、元治(げんじ)元年(1864)=蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変(へん)〕も、その都度再建され、明治38年(1905)の本殿造営では天正の銘を持つ礎(そ)石(せき)が発見されている。
応仁の乱:応仁元年(1467)から文明(ぶんめい)9年(1477)に掛けて京都を中心に行われた大規模な戦乱である。応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱とも云う。元は室町幕府第8代将軍足利義(よし)政(まさ)の継嗣(けいし)(跡継ぎ)を巡る弟の義(よし)視(み)と実子の義(よし)尚(ひさ)の争いに加えて斯波(しば)、畠山(はたけやま)両管領(かんれい)家(け)(幕府の職名。将軍を輔佐(ほさ)して政務を統轄する。足利家の一族で細川との三家が交替して就任)の家(か)督(とく)争いが絡んで天下を二分する11年に亘(わた)る大乱である。
『御所八幡宮』は皇室のご尊(そん)宗(すう)と貴(き)紳(しん)(身分の高い人)、武(ぶ)門(もん)(武士の家系)の崇敬(すうけい)は誠に深甚(しんじん)(深い気持ち)にして、特に足利将軍家累代(るいだい)の社(しゃ)参(さん)など朝(ちょう)家(か)(皇室)の敬仰(けいぎょう)(敬(うやま)い尊(たっと)ぶ)も篤(あつ)く神(しん)賑(しん)(盛大な神威で活気がある)を極めていたが、応仁の乱後、戦国時代を経て天(てん)正(しょう)元年(1573)に足利幕府が滅亡するに到り、その勢いは衰える。しかしながら、疲(ひ)弊(へい)(貧困弱体)し、荒廃(荒れ果てる)していた京都市中は次第に立直りを見せ、土(ど)塀(べい)ばかりが並んでいた公(く)卿(ぎょう)や武家(ぶけ)の街から、豊臣秀吉の都市改造により徐々に多くの商人や町衆(まちしゅう)が住む様になり、賑(にぎ)やかな商業地域として発展する。その隆盛(りゅうせい)は、江戸時代へと引継がれ、今日に到る。
『御所八幡宮』の境内は、江戸時代を通じて特に大きな変化は見られず、★御池通(元の三條坊門(さんじょうぼうもん))の南、堺町通〔高倉小路と萬里(までの)小路(こうじ)(柳馬場通)の中間、天正年間に開通〕の西、高倉通の東の位置であった。昭和20年(1945)の第二次世界大戦終結の後、戦時中の強制(きょうせい)疎(そ)開(かい)により拡張された御池通は、整備が行われ大(おお)路(じ)となった分、境内は更に狭くなった。そして、時(とき)の流れの中(うち)に大きなビルに埋もれる状況になっても御祭神は、現在地に鎮(しず)まっている。往昔(おうせき)(過ぎ去った昔)の盛観(盛大な眺め)は、これを偲(しの)ぶ由(よし)もないが、往(おう)古(こ)(古(いにしえ))より概(おおむ)ね鎮座の位置を変える事なく現存し、今では初音学区並に初音学区民や近隣の地域住民の守護神として又、御所八幡宮社奉賛維持会をして多くの人達に崇敬され、御池の御所八幡さんとして親しまれている。都市のドーナツ化による人口減少で一時は、寂寞(せきばく)(寂しくひっそりした様子)の感も呈(てい)していたが、近年の少子高齢化は顕著(けんちょ)であるものの、一方ではマンションの増加に伴い人口は増えつつある。そんな中、平成21年(2009)には“御所八幡宮神輿会”が発足し、その翌年の例祭日には、神輿を全町内担(かつ)いで渡(と)御(ぎょ)巡(じゅん)幸(こう)し、御(ご)神威(しんい)の昂揚(こうよう)に努めている。ここに『御所八幡宮社』は新たな歴史を刻(きざ)もうとしているのである。               以上。
【御池通の事】〔その名称の由来⇒神泉(しんせん)苑(えん)(中京区教業学区)と云う説が根強くあるが、誤り。〕
御(お)池(いけ)通(どおり):元は三條坊門小路。旧道は、現在の北側の歩道部分(西洞院通以西は、ほぼ逆の南側)であったが、昭和18年(1943)の第三次防空法の改正により第二次世界大戦末期の強制疎開で家(か)屋(おく)を撤去し、戦後整備され、現在の大(おお)路(じ)となった。
今の京都国際マンガミュージアム辺(あた)りに鎌倉時代中期から二條関白の「押小路烏丸殿(どの)」の邸(やしき)があり、通称「二條殿(どの)」と呼ばれていた。二條関白は、元々「二條富(とみの)小(こう)路(じ)殿(どの)」であったが、永(えい)仁(にん)年間以前の13世紀後半に相(そう)博(はく)(所領地等の交換)が行われた様である。「二條富小路殿」は、後(のち)に内裏となる。
「押小路烏丸殿」は、その南側に「龍(りゅう)躍(やく)池(いけ)」と呼ばれる宏(こう)大(だい)な池が存在し、龍が昇る伝説もあった。池の上には「泉(いずみ)殿(どの)」と呼ばれる離(はな)れが建てられ、本邸と結ばれていたと云う。この「龍躍池」こそが、御池通の名の由来である
因(ちな)みに初音学区の西隣りに当たる龍(たつ)池(いけ)学区や元龍池小学校の名称の由来ともなっている。近くに御池之町(室町通御池上る)、龍池町(両替町通御池の南北)、二條殿町(烏丸通御池上る)の町名があり、全て邸と池の名残である。
「龍躍(りゅうやく)池(いけ)」と「二條殿」はその後、織田(おだ)信長(のぶなが)が二條家を立ち退かせ、荒廃していた邸を修繕させ、正親町(おおぎまち)天皇(第106代)の第5皇子誠(さね)仁(ひと)親王(しんのう)に献上し、「二條御所」となる。しかし、天(てん)正(しょう)10年(1582)の本能寺の変の折に明(あけ)智(ち)光(みつ)秀(ひで)の兵火により焼失(信長の嫡男織田信忠が居た為に襲撃に合う)。以後の再建はない。池の残(ざん)滓(し)(残りかす・汚泥)は、江戸時代後期迄(まで)確認出来るが、池は無くなる。安永(あんえい)9年(1780)の「都(みやこ)名所(めいしょ)図会(ずえ)」≪次の頁にて紹介≫には、御池通烏丸西に永(なが)く「鵲(かささぎ)橋(ばし)」と云う石橋があり、これも旧地に遺(のこ)る水亭(すいてい)(池の辺(ほとり)に立つ東屋(あずまや))の名残(なごり)であると云う記録が残っている。